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真田丸はどこに?餌差町あたりに「真田四角」、再び茶臼山

真田丸はどこにあったか。それは現在地で言えば、大阪市天王寺区餌差町あたり、心眼寺を含む一帯で「丸」というよりおよそ「四角」い形の真田丸でした。

これは大坂冬の陣での真田丸。さらに大坂夏の陣では、冬の陣で家康が本陣を置いた天王寺区茶臼山町の天王寺公園あたりに真田丸は再び作られました。

すなわち真田丸は二度にわたって造成され、どちらも破壊されましたが、その全貌が次第に明らかになってきました。

餌差町

茶臼山

大河ドラマ『真田丸』でも脚光を浴びる真田丸ですが、そもそもどこに築かれたかについて、2015年になって明らかになってきた新事実があります。

 

*本項は、おもにNHKで2016年1月6日に放映された『歴史秘話ヒストリア』を見て、その内容を参照しています。表現は番組そのものではありませんのでご了承ください。

 

Contents

大坂冬の陣の真田丸

『大坂御陣覚書』によると、大阪城の南東方面におよそ百間四方の大きさの真田丸があったとされます。

しかし2016年7月のレーダー調査では、真田丸があったとされてきた真田山地域では地層に反応が見られなかった一方で、天王寺区餌差町で、人工的な溝が感知されました。

レーダーで反応があった場所は、↓のピンクのあたり。

溝は深さ11m、幅30mほどでその大きさは大坂城惣構堀の外堀にも匹敵します。

 

さらに空襲時にアメリカ軍が撮影した写真を立体視しても、レーダーで反応があった地域と同じ周辺に、何かが築かれたあとを見ることができます。

全体としては東西220m南北230mほどの大きな四角形だったといえます。

 

 

また広島藩に残された浅野文庫にある『諸国古城之図』には、真田丸が四角く描かれており、この地図が真田丸の姿を正確に写している可能性があり、実際に歩いてみると・・・

 

お寺が縦に3件、横に3件並んでいる地図で、その端にある心眼寺では現在、入り口に「真田幸村出丸城跡」という石碑もあります。

また心眼寺の墓地に立ってみると、そのの高さは隣接するマンションの3階と同じ位置になり、つまり真田丸は高い一角にあったことが分かります(=北側は深い谷ともいえる)

寺を利用することで瓦屋根は燃えにくく、寺には広い空間があるために多くの兵が野営することも可能でした。

これまで真田丸は野原の真ん中のようなところにあったとされてきました。しかし元来、町中であった場所に真田丸を築いたため路地が狭く、徳川軍にとっては、激しい銃弾を浴びても、大軍が引き返すこともできずに、大混乱に陥ることになります。

 

進んでも、豊臣側が築いた巨大な堀に兵士らは落とされました。つまり真田丸は町中にあって敵が引き返せない場所であり、さらに真田丸の北側は、深い谷になっていたため、谷のほうから攻撃される可能性はなく、

そのような構造的な利点からも、5000人しかいなかった真田丸のほうが、徳川軍の死者1万5000人を出したとされます。

 

しかし真田丸にも危険はありました。

大坂城から離れて独立した城であり、援軍も補給も困難。そんな孤立無援の城=真田丸を築いてでも、秀頼と大坂城を守りたかったのが真田信繁(幸村)であったということ。

 

一方、徳川方も、家康は強者。

「大坂冬の陣図屏風」によると双方の兵士のようすは

真田丸 → 2〜3人で鉄砲を構える

徳川  → 竹束(盾)を持ち、その背後に築山(攻撃陣地)が見える。さらに兵が列を作っており、下半身は仕寄(塹壕)の中にある。

徳川ではできるだけ敵に近づきながら、穴を掘りかつ築山を作っていたとされますが、今回、立体視の結果3箇所の射撃陣地を発見することができました。

3箇所とも、真田丸から100mくらいの距離で、当時の火縄銃の距離が100〜150くらいだったことに拠ります。

しかし同時に、弾が飛んでこないはずの位置にも塹壕を作っていることが謎でした。

3箇所の陣地(水色)の他に、遠いところにも塹壕(緑色)が掘られたのは、真田軍は「大狭間筒(おおはざまつつ)」という巨大な銃を使っていたから。大狭間筒は300メートルにもおよぶ距離を撃ち抜きました。

長さ2メートル重さ20キロくらいの大型銃だから、真田の兵士は数人で銃を構えていたのです。

徳川はその攻撃の合間を縫って、少しずつ攻撃陣地の山を築き、やっと反撃しましたが、お互いに膠着状態・・・

 

ということでご存知のように、大坂城に大砲を撃ち込まれて恐れた淀君が、独断で和睦を結んでしましました。(信繁、お気の毒!)

 

ここまでが冬の陣です。1614年、冬の陣が終わり、堀も埋められ、真田丸も取り壊されました。

 

大坂夏の陣の真田丸

1615年家康は勝ったも同然に進軍してきましたが、なんと真田丸が再び・・・

ということで今度の真田丸は、家康が冬の陣で本陣を置いた場所(天王寺区茶臼山、現在の天王寺公園あたり)を再利用して真田幸村が、本陣(真田丸)を築いていました。

先述の広島藩の地図では、茶臼山の地図も残されており、東西二十間、南北二十一間であったとされます。

さらに馬出し部分は、信繁が作ったからこそ北(大坂城)ではなく南に向かって出撃できる位置でした。

 

現在の天王寺公園に真田丸の面影を探すのは困難ですが。

 

信繁の考えでは、茶臼山は交通の要衝であり、必ず通るから逆に真田丸は徳川から攻撃の対象となる。だからその間に、西の丸馬出から、騎馬隊が出て手薄になった家康を狙う・・・はずでした。

 

騎馬隊は、そのタイミングを待っていました。しかし、その間に味方の毛利勢が、焦って越前松平勢と戦いを始めてしまいます。

信繁の作戦は失敗し、真田丸にいる理由がなくなり、茶臼山を捨てて、家康の命を狙いに突進します。

家康は二度も切腹を決意した等々が伝わっています。

 

しかし、徳川軍のまもりは固く、信繁(幸村)はあっけなく安居神社で落命。先程の天王寺公園のすぐ北側です。

 

大阪の地理が全然わかっていませんが、これはぜひ、訪ねてみたいです。歴史は、新たな事実が解明されていくのが面白いーーー

いつか、なんでも分かってしまうのか・・とちょっと複雑な気持ちにもなります。

 

*『歴史秘話ヒストリア』を参照していますが、中の研究者名等は省略させていただいています。

 

 

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